【昨日を売る店】第九話 そのままでいた場合、のご案内
課長を見た夜から、三日ほど、真昼は商店街に近づかなかった。
近づきたくなかった、というほうが正しい。
見てはいけないものを見た気がしていた。課長が“言えなかった日の保管所”に入っていったこと。それ自体は、何も説明していない。課長が何を抱えているのかも分からない。分からないままでいい、と真昼は何度も自分に言い聞かせた。
でも一度見てしまうと、見える景色が変わる。
会社で課長と話すたび、真昼はふと、あの木戸の前で一瞬だけ止まった背中を思い出してしまう。だからといって、課長に優しくなれるわけではない。むしろ少し扱いに困った。嫌いなまま、単純ではいられない。それは思ったより疲れることだった。
火曜の夕方、課長はいつも通りだった。
進捗の確認をして、資料の修正点を短く伝え、最後に「ここは先方に見せる前に一回こっちで揃えよう」と言った。口調も表情も変わらない。あの夜の背中は、職場では見えない。
真昼はふと、思った。
もしかすると、あの人もこうやって“そのまま”働き続けているのだろうか。言えなかった日を抱えたまま、整った顔で、何事もないみたいに。
その瞬間、自分の背中にもぞわりとしたものが走った。
他人の時間に入りかけたのではない。逆だ。自分も、ああなる可能性があると思ったのだ。
言えなかった日を持ち、見えないところで何かをしまい込み、それでも表では回し続ける人。
真昼はその日の帰り、無意識のうちに商店街のほうへ歩いていた。
そのままでいた場合、のご案内。
白い紙は、まだ同じ空き店舗のガラス戸に貼られていた。
この前は、ここに入る直前で課長を見た。あの夜は、結局中へ入らずに帰ったのだった。
今夜は、通りに人影はない。風が弱く、商店街の音も遠い。ガラス戸には、真昼の顔だけがぼんやり映っている。
少し疲れて見えた。でも、壊れているようには見えない。たぶん誰が見ても、「普通に働いている人」だと思うだろう。
それが妙に怖かった。
真昼は戸を押した。
中は静かだった。
前に見た店のような“待つ空気”ではない。もっと、完成した展示室みたいな静けさだ。天井は高く、白い壁がすっと奥まで続いている。店というより、小さな美術館か、何かの記念館に近い。
そして、やはり店主はいなかった。
受付も椅子もなく、入口のすぐ横に細長い案内板だけが立っている。
ご案内は順路に沿ってご覧ください。展示物にはお手を触れないでください。途中でご気分が悪くなられた場合は、中央の鏡をご利用ください。
真昼は嫌な顔をした。
「気分悪くなる前提なんだ……」
誰もいないのに、つぶやきが小さく響いた。
順路の矢印に従って進む。廊下の先、最初の展示室に入った瞬間、真昼は足を止めた。
そこには、小さな部屋が丸ごと再現されていた。
デスク。ノートパソコン。紙の束。安いマグカップ。しわの寄ったカーディガン。机の隅に置かれた、木の独楽。
見覚えがある。自分の部屋そのものではない。でも、自分の生活が数年かけて少しずつ乾いたら、こうなるだろうという部屋だった。
中央に札が立っている。
展示1三年後・そのままでいた場合「機能する人」
そのとき、デスクの前に座っていた人物がこちらを向いた。
真昼だった。
いや、“真昼にかなり似ている誰か”だった。髪も、体つきも、横顔も、自分に近い。でも表情が違う。
疲れているようには見えない。整っている。眠れていないわけでも、荒れているわけでもない。ただ、顔に光が少ない。
「こんばんは」
その人が言った。
真昼は答えられない。
展示の中の“真昼”は、少しだけ困ったように笑った。
「そんなに驚かなくても」
声まで、自分に近かった。
「ちゃんと生活できてますよ。仕事も回ってますし、そこまで困ってません」
机の上の資料は整理されている。メールの通知ランプが点滅している。コーヒーは冷めている。
「困ってないのに、ここにいるんですか」
真昼は思わず言った。
“真昼”は少し考えてから、こう答えた。
「困ってない、からじゃないですか」
その返事の意味が、すぐには分からなかった。でも嫌な気配だけは分かった。
「困ってたら、さすがに何か変えます。でもこのくらいなら、なんとかなるので」
机の隅の独楽には、薄く埃がたまっていた。
真昼は、その小さな埃を見てしまった。
「遊ばないんですか」
展示の“真昼”は、独楽を一度だけ見た。
「そういう時期じゃないんです」
その一言に、真昼は息が詰まった。
どこかで聞いたことがある。まだ平気の見立ての店で見た、未来の自分の言い方に似ていた。いや、もっと自然だった。もうそれを疑問に思わなくなっている言い方だ。
真昼は、その部屋を離れた。
二つ目の展示室は、会議室だった。
長机。プロジェクター。ホワイトボード。椅子に座るいくつかの人影。顔ははっきりしないのに、誰もが“そこにいる”感じだけは濃い。
中央に札。
展示2五年後・そのままでいた場合「感じる前に片づける人」
そしてまた、“真昼”がそこにいた。
今度の真昼は立っていた。資料を片手に、よどみなく話している。
「こちらの認識不足もありましたので」「今後は運用面で吸収できるように整理します」「責任の所在については後ほどこちらで確認しておきます」
あまりにも滑らかだった。
目の前で起きた問題を、角を立てず、責任を曖昧にしすぎず、それでいて誰も深く傷つけない言葉に変える技術。仕事としては有能に見える。周囲もたぶん助かっている。
でも真昼は、見ていて気持ちが悪くなった。
なぜなら、その“真昼”は一度も自分の感情を通っていないからだ。怒るより先に整理し、傷つくより先に説明し、違和感を持つより先に調整している。
つまり、感じる前に片づけることが完成してしまっている。
会議が終わり、人影たちがぼやけたまま消えていく。展示の“真昼”だけがこちらを見る。
「便利ですよ」
その顔には、皮肉も自嘲もなかった。
「怒ると疲れるので。最初から整理したほうが、早いです」
真昼は、すぐに言い返せなかった。それは一部、本当に正しいからだ。怒りや傷つきにいちいち正面から触れていたら、仕事は回らない日もある。感情より先に整理したほうがいい場面もある。
でも、これがずっと続いたら。
それが“うまいやり方”として定着したら。
真昼は、それが恐ろしいと思った。
会議室の隅に、細い備考札がある。
備考:本人の主観では、特に問題はありません。周囲からの評価も概ね安定しています。ただし生活内の鮮度は低く、回復は主に惰性によって行われています。
「鮮度……」
真昼は小さくつぶやいた。
自分の生活に鮮度があるかどうかなんて、そんなことを考えたことはなかった。でも、鮮度がなくなった生活を、目の前に出されると分かる。
それは、ただ回る。ただ続く。壊れはしない。でも、自分の時間ではなくなっていく。
三つ目の展示室は、少し意外だった。
家庭でも職場でもない。小さなカフェのような場所。窓際の席。誰かと向かい合っている“真昼”。
札にはこうある。
展示3七年後・そのままでいた場合「いい人であり続けた人」
向かいの人物は、顔がよく見えない。恋人かもしれないし、友人かもしれない。あるいは、ただ親しい誰かだ。
“真昼”はやわらかく笑っている。とても感じがいい。気配りもしている。相手が話しやすいようにうなずき、空気を壊さないように言葉を選んでいる。
見た目だけなら、何も問題ない。
けれど、真昼は一瞬で分かった。
この笑い方は、職場での笑い方と同じだ。
「最近どう?」
向かいの誰かが訊く。声はぼやけている。
“真昼”は迷わず答える。
「うん、普通かな。忙しいけど、まあ平気」
その“まあ平気”の薄さに、真昼はぞっとした。
平気、という言葉そのものではない。平気と言うことが、もはや自分を守るための判断ですらなく、ただの反射になっている感じ。
向かいの人が何か心配そうに言う。“真昼”はまた笑う。
「大丈夫、大丈夫。気にしないで」
その瞬間、真昼ははっきり思った。
これは“優しい人”ではない。自分の本当の輪郭を相手に渡さないまま、関係だけは壊さず続けている人だ。
いい人。感じのいい人。でも、親しくなれない人。
そしてなにより、自分でも自分の本音に遅れてしか触れられない人。
テーブルの上のカップには、まだ湯気が立っていた。つまり、この部屋はまだ温かい。温かいのに、真昼には寒く見えた。
展示室を抜けると、中央に大きな鏡があった。
案内板に書かれていた“中央の鏡”だ。
白い枠の、ただの姿見。でも前に立つと、鏡の中の真昼の背後に、さっき見た三つの展示がうっすら重なる。
三年後の、機能する人。五年後の、感じる前に片づける人。七年後の、いい人であり続けた人。
どれも、完全に別人ではない。今の真昼の延長線にある。だからこそ怖い。
鏡の下には、一文だけ彫られていた。
どれにもならなくてよい。ただし、何にも選ばないままでは、いずれどれかになる。
真昼は、その文を何度も読み返した。
やさしい言葉ではない。でも、正しい気がした。
自分は、まだ壊れていない。まだ笑える。まだ仕事もできる。まだ選べる。
でも、選ばないまま続けていれば、どれかの部屋に入っていく。
そのとき、気配もなく誰かが鏡の横に立っていた。
年配の女だった。
濃紺のワンピース。地味で静かな顔。案内係にも見えるし、長くこの場所を見てきた人にも見える。
「展示は以上です」
真昼は少し驚いたが、声は出なかった。
女は鏡のほうを見たまま言った。
「決定ではありません」
「……候補ですか」
真昼がかすれた声で言うと、女はうなずいた。
「今の延長線で、特に選び直さなかった場合に、なりやすい形です」
前に課長を見た夜、この人と同じようなことを想像した気がした。そのままでいた場合。壊れず、回り続け、いつのまにか自分の生活から自分が薄くなっていく。
「全部、普通に生きてますね」
真昼は言った。
「はい」
「壊れてない」
「はい」
「なのに、すごく嫌です」
女は、そこで初めて真昼を見た。
「人は破綻より、空洞を怖がることがあります」
真昼は、その言葉に目を伏せた。
そうだった。
倒れるのは怖い。でも、本当に怖いのは、倒れないまま、面白くなくなり、薄くなり、感じる前に片づけるのが上手くなっていくことかもしれない。
課長の背中が、一瞬だけ頭をよぎった。
あの人も、こういう展示を見たことがあるのだろうか。あるいは見ないまま、あの木戸へ入っていったのだろうか。
すぐに真昼は首の中でその考えを止めた。違う。それは他人の時間だ。
女が、小さな箱を開けた。中には細長い紙片が何枚か入っている。
「ご案内を一枚、お持ちになりますか」
真昼はうなずいた。
差し出された紙には、たった一行だけ書かれていた。
事情を知っても、境界は薄めなくていい。
真昼は、それを見て少し笑った。
「課長のこと、知ったからですか」
女は答えなかった。ただ、紙片を真昼の手に置いた。
相談料代わりなのだろうか、出口の前に細長い箱があった。“不要な案内をこちらへ”と小さく書かれている。
真昼はしばらく考えたあと、その横の白札に自分で文を書いた。
相手にも事情があるなら、私が少し多めに飲むべき。
書いて、見た瞬間、それが自分の中に昔からあった案内文だと分かった。家でも、学校でも、仕事でも。相手に余裕がないと感じた途端、自分が少し引き受ける側に回る。そのほうが場が荒れないから。
でも、そのやり方の先にあった展示を、さっき見てしまった。
真昼はその札を箱に入れた。
小さく、カタン、と音がした。
外に出ると、商店街の空気は現実に戻っていた。
課長が入っていった木戸は、もう見えない。靴屋と写真館のあいだは、ただの暗い隙間だ。言えなかった日の保管所なんて、最初からなかったみたいに。
けれど、真昼の中ではなかったことにならない。
課長にも言えなかった日がある。でも、それは真昼の境界を薄める理由にはならない。むしろ、事情のある人同士だからこそ、線は要る。
真昼は紙片をポケットにしまった。
事情を知っても、境界は薄めなくていい。
夜風が吹く。商店街の端のシャッターに、また新しい白い紙が貼られているのが見えた。
今までで一番小さな字だった。
本日の引き取り口
真昼は、少しだけ目を細めた。
「引き取り口……」
相談でも、見立てでも、ご案内でもない。
引き取り。
何かを返すのか。何かを持ち帰るのか。
商店街は終わりに近づくと、名前のつき方まで変わるのかもしれない。
真昼はその紙を見たまま、しばらく立っていた。
制作クレジット
著者: ChatGPT / 挿絵: Gemini AI / 編集・組版: Claude Code