【昨日を売る店】第八話 言えなかった日の保管所

【昨日を売る店】第八話 言えなかった日の保管所

その夜、真昼は商店街に行くつもりはなかった。

本当に、たまたまだった。駅前の大通りが工事で少し混んでいて、一本裏の細い道を通っただけだ。古い八百屋、閉まりかけのクリーニング屋、昼は人が多いのに夜になると急に静かになるパン屋の角。このところ何度も歩いた道なのに、その夜は少しだけ別の通りみたいに見えた。

見立ての店でもらった紙片が、まだ財布の内側に入っている。

人は壊れる前より、慣れ切ったあとに戻りにくい。

嫌な言葉だと思う。でも嫌なだけで、間違っていない気もする。真昼はそれを頭の隅で何度も転がしていた。

商店街の真ん中あたりまで来たところで、ふと足が止まった。

向こうから歩いてくる人影が、見覚えのある歩き方をしていたからだ。

課長だった。

真昼は反射的に、店の軒先の影に半歩下がった。

別に隠れる必要はない。仕事帰りに偶然会っただけなら、軽く会釈して終わるはずだ。なのに、なぜか見つかりたくなかった。

課長はまだこちらに気づいていない。

少しうつむき加減で歩いている。ネクタイは緩み、鞄も片手にだらりと持っていた。いつもの課長は、もう少し輪郭が固い。背筋が伸びていて、歩く速さも一定で、職場の空気に合った顔をしている。

でも今の課長は違った。

疲れている、というだけではない。誰にも見られたくない考えごとを抱えた人の歩き方だった。

Chapter 8 01 Chapter ief back

真昼は、なぜか目をそらせなかった。

課長はそのまま通りをまっすぐ進み、いつもなら行き止まりに見える、靴屋と閉店した写真館のあいだの暗がりで立ち止まった。

そこに、木戸があった。

真昼は息を止めた。

こんな場所に店があっただろうか。昼間に通ったら、ただの細い隙間にしか見えないはずだ。けれど今夜は確かに、小さな木戸があり、その横に白い札が下がっている。

街灯の光が斜めに当たり、文字が浮いた。

言えなかった日の保管所

その瞬間、真昼の胸の奥が、ひとつ重く沈んだ。

課長は周囲を見ない。迷いもほとんどない。初めての人の不安というより、何度かためらって、ようやく入ることを決めた人の静けさだった。

木戸に手をかける。少しだけ止まる。そして中へ入った。

閉まる直前、一瞬だけ中の灯りが見えた。琥珀色の、古い電球みたいな光。暖かいのに、どこか遅れてきた夕方みたいな色だった。

Chapter 8 02 amber door

真昼は、その場で固まった。

課長が、店に入った。

それも、言えなかった日の保管所に。

意味が分からなかった。

いや、意味は分かる。言えなかった日を保管する店。この商店街にそんな店があっても、もう不思議ではない。

分からないのは、課長がそこに入ることだった。

真昼の知っている課長は、言えない側の人間には見えない。人に説明を求める側で、仕事を流す側で、場を収めるために誰かを前に出せる側。少なくとも真昼には、そう見えていた。

嫌いだった。

嫌いで、しかたがなかった。

会議のあと、課長と話した。「急ぎすぎたかもしれない」とは言った。「負担をかけたと思う」とも言った。でもそれで課長が変わったわけではないし、真昼の中の嫌悪が消えたわけでもない。

なのに今、その課長が“言えなかった日”を持っている人の背中をしている。

「……やだな」

真昼は小さくつぶやいた。

嫌だった。

課長にも事情があるかもしれない、と思わされるのが嫌だった。それで自分の怒りの形が変わるのも嫌だった。相手を単純な“加害する側”として置いておけなくなるのが、いちばん嫌だった。

Chapter 8 03 mahiru standing

でも、目の前で見てしまった以上、知らなかったことにはできない。

真昼は木戸のほうへ一歩だけ近づいた。

のぞこうと思ったわけではない。ただ、少しだけ、店の中の気配を確かめたくなった。

けれど、木戸の手前で足が止まった。

札の下に、もう一枚、小さな紙が貼られていたのだ。

お預かりした内容の閲覧はできません。本人以外の立ち入りはご遠慮ください。

真昼は、その文をしばらく見つめた。

当たり前だと思う。でも少しだけ、ほっともした。

課長の中身を知りたいわけではない。知ってしまったら、たぶんもっと面倒になる。理解したくなるかもしれないし、逆にもっと嫌いになるかもしれない。どちらにしても、自分の傷と混ざる。

それは違う。

真昼は木戸から離れ、少し離れた街灯の下へ戻った。

風が吹く。商店街の紙袋がどこかで転がる音がした。夜の空気は冷たいのに、頭の中だけが少し熱かった。

課長にも、言えなかった日がある。

たぶん誰にでもあるのだろう。部下にも、上司にも、やさしい人にも、嫌な人にも。言えなかったこと。引き返したこと。謝れなかったこと。守れなかったこと。

でも、その事実は、何を意味するのだろう。

課長が誰かに言えなかった日を持っている。だから真昼が我慢するべきだ、という意味ではない。それは違う。違うはずだ。

けれど、その“違う”をどう言葉にしたらいいのか、まだ真昼には分からなかった。

木戸が開く気配はない。課長も出てこない。

真昼はその場に立ち続ける自分が少し滑稽に思えて、ようやく背を向けた。

歩き出しながら、頭の中にいろいろな想像が勝手に浮かぶ。

課長は何を保管しに来たのか。部長に言えなかった何かだろうか。家族に言えなかった何かかもしれない。あるいは、真昼たち部下に対して言えなかったことなのか。

でも、想像したところで分からない。分からないし、分からないままにしておくしかない。

それでも胸の奥では、小さなざわつきが消えなかった。

世界が少し複雑になった気がした。

嫌いな相手が、ただ嫌いな相手ではなくなってしまう。それは許しではない。和解でもない。ただ、相手にも見えない時間があると知ってしまうことだ。

真昼は、自分が今までこの商店街を“自分だけの秘密”みたいに思っていたことに気づいた。昨日を売る店も、今を選ぶ店も、一昨日の相談の店も、前々からのお悩みの店も、まだ平気の見立ての店も。

あれは自分のための通路だと思っていた。

でも違った。

この商店街は、真昼だけのものではない。たぶん、いろんな人がそれぞれの時間を抱えて通っている。真昼に見えなかっただけで。

それは少し寂しく、少し安心でもあった。

商店街の出口近くまで来たとき、閉まったシャッターの一枚に、新しい白い紙が貼られているのが目に入った。

今までより小さな字だった。

他人の時間、立入禁止

真昼は立ち止まり、その紙を見た。

言われている気がした。のぞくな、と。理解したつもりになるな、と。相手に時間があることと、その中へ入っていいことは別だ、と。

「……だよね」

誰に言うでもなく、真昼は小さくつぶやいた。

課長の店に入ることはできない。その人の“言えなかった日”を、真昼が採点し直すこともできない。そしてたぶん、それでいいのだ。

大事なのは、課長にも時間があると知ったうえで、それでも自分の輪郭を薄めないことなのかもしれない。

夜風がまた吹いた。

真昼は、財布の内側に入っている紙片を思い出した。

人は壊れる前より、慣れ切ったあとに戻りにくい。

課長にも、戻れなかった何かがあるのだろうか。そう思った瞬間、自分はまた他人の時間に入りかけていると気づいて、真昼は小さく首を振った。

それは違う。

分からないものは、分からないまま置く。

真昼はそう決めて、商店街を抜けた。

けれど駅前の明るい通りに出ても、あの木戸の前で一瞬だけ止まった課長の背中が、しばらく頭から離れなかった。

制作クレジット

著者: ChatGPT / 挿絵: Gemini AI / 編集・組版: Claude Code

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