【昨日を売る店】第四話 返品の朝

【昨日を売る店】第四話 返品の朝

朝は、思ったより普通に来た。

目覚ましが鳴り、真昼は一度だけ天井を見た。何か劇的な気分の変化があるわけではない。勇気が満ちることもないし、覚悟が完成している感じもしない。

むしろ、少し胃が重かった。

昨夜送ったメッセージは消えていない。課長からの「朝、少し時間を取りましょう」も、そのまま画面に残っている。

真昼は布団の中でスマホを見つめ、それからゆっくり起き上がった。

洗面所の鏡に映る自分は、いつも通りだった。寝癖が少しついていて、目の下に薄い影がある。革命を起こす人間の顔ではない。ただ、会社に行きたくないと思っている人の顔だ。

Chapter 4 01 mirror

それでいい、と真昼は思った。

昨日、今を選ぶ店で言われた。英雄は扱っていない。必要なのは人生を全部変える一手ではなく、輪郭を削らない一手だと。

朝食を無理にでも少し食べ、真昼は家を出た。

駅までの道を歩きながら、ポケットの中の札に触れる。まだ入っている。

言う。

紙の感触は薄いのに、そこだけ重かった。


会社のビルは、昨日と同じ顔をしていた。

自動ドア。受付の観葉植物。少し冷えすぎたエントランス。エレベーター前で交わされる、薄い朝の挨拶。

世界は、自分の小さな決意など関係なく動いている。

真昼はそのことに少し救われた。自分の中では大事件でも、外から見ればただの平日だ。だからこそ、言えるのかもしれない。

デスクに着くと、先輩がいつも通りコーヒーを持ってきていた。

「おはよう。昨日遅くまで大変だったね」

「おはようございます」

真昼は返した。

先輩の口調は軽い。悪意があるわけでもない。だが、その軽さが、昨日の出来事の輪郭を曖昧にする。

真昼は一瞬だけ、昨夜の自分を疑いそうになった。もしかして大げさだったのではないか。少し嫌なことがあっただけで、騒ぎにしようとしているのではないか。

その瞬間、ポケットの中の札が指先に当たった。

輪郭。

感情の強さではない。何が違うと感じたのか、その線だけは見失わない。

「課長、来たら声かけてください」

真昼は自分でも驚くほど普通の声で言った。

先輩は一瞬だけこちらを見たが、すぐにうなずいた。

「うん、分かった」

その「分かった」の中に、少しだけ何かを察した気配があった。


九時二十分。課長が出社した。

資料を置き、メールを開き、誰かと短く話したあと、真昼のほうを見た。

「小野さん、ちょっといい?」

会議室ではなく、小さな打ち合わせスペースだった。半透明のパーテーションで区切られた、四人用の丸テーブル。開かれすぎてもおらず、閉じすぎてもいない場所。

それが課長らしいと思った。大事にもしないが、完全に雑にも扱わない。

真昼はノートも資料も持たずに席を立った。ポケットの中の紙だけを持って。

座ると、課長が先に口を開いた。

「昨日の件だよね」

「はい」

「どういう認識だったか、聞かせてもらっていい?」

思っていたより穏やかな入り方だった。

それが逆に難しかった。怒られたほうが言いやすかったかもしれない。穏やかさは、こちらの輪郭をまた曖昧にすることがある。

真昼は、一度だけ昨夜書いた紙を思い出した。

あの件は、私は納得していません。今後同じ形になるなら、事前に相談してほしいです。

そのままでいい。うまく言おうとしなくていい。

「昨日の場で、私が前に出て謝る形になったことについて、私は納得していません」

言った瞬間、心臓が大きく打った。

課長の表情は動かなかった。ただ、目線だけが少し鋭くなる。

真昼は続けた。

「判断の経緯も共有されていないまま、私が説明と謝罪を引き受ける形になったので、正直困りました」

静かだった。

課長はすぐには返さなかった。机の上に組んだ手を見ている。その数秒が長い。

真昼は逃げたくなった。ここで「でも私も未熟だったので」などと付け足せば、空気は丸くなる。場は収まる。いつもの自分なら、そうしていた。

でも、それを言った瞬間に、昨日から取り戻しかけた輪郭がまた滲む気がした。

真昼は口を閉じたまま待った。

課長がようやく言った。

「そう感じたのは分かった。こちらとしては、あの場を早く収める必要があった」

予想通りの言葉だった。

正当化。事情の説明。組織の都合。

真昼の胸の奥で、小さく火がつく。

「それは分かります」

自分でも驚くほど落ち着いていた。

「でも、早く収める必要があることと、誰がどう説明するかは別だと思っています」

課長が初めて少し黙った。

真昼は続けた。

「私が前に出る必要があるなら、事前に一言ほしかったです。少なくとも、何をどう説明するのか認識を合わせたかったです」

言い終わると、手のひらがじっとりしていた。

これ以上は言いすぎだろうか。いや、まだ全然足りないのではないか。頭の中で両方の声が騒ぐ。

だが課長は、思ったほど強く反発しなかった。

「……たしかに、そこは急ぎすぎたかもしれない」

真昼は瞬きをした。

反省、ではない。謝罪、でもない。だが、否定一色でもなかった。

課長は少し視線を落としたまま続けた。

「部長があの場で、担当が説明したほうがいいと言って、その流れになった。自分もその場で止めなかった」

そこまで聞いて、真昼は妙な感覚になった。昨日の会議室で、巨大で一枚岩に見えた出来事が、少しずつ人間の判断の集まりに戻っていく。

部長がいて、課長がいて、流れがあって、止めない選択があった。絶対的な運命ではない。ただの判断の連鎖だった。

それは救いでもあり、腹立たしさでもあった。

「次からは、そういう場がありそうなら、事前に共有します」

課長は言った。

そして、少し間を置いてから付け加えた。

「昨日は、負担をかけたと思う」

その言葉は、謝罪としては小さい。けれど、ゼロではない。

真昼は、自分の中のどこかが少しだけほどけるのを感じた。

完璧な勝利ではない。気持ちよく終わる話でもない。でも、何も言わなかった世界線とは違う場所に、たしかに来ている。

「ありがとうございます」

そう言ったあと、真昼は一瞬迷った。

ここで終えるか。それとももう一歩言うか。

昨日の店、明日の店、今の店。それぞれの言葉が、胸のどこかに浮かぶ。

輪郭。本気。支払い。

真昼は、もうひとつだけ言った。

「あと、私が未熟な点があるのは分かっています。でも、責任の持ち方については、今後もう少し整理したいです」

課長は真昼を見た。

その目は、少しだけ今までと違った。扱いやすい若手を見る目ではなく、面倒でも一応一人の当事者として見る目に近かった。

「……分かった。そこは整理しよう」

会話はそこで終わった。

劇的ではない。拍手もない。課長が急に良い上司になるわけでもない。

けれど真昼は、席に戻るまでの数歩のあいだ、自分の足の裏がちゃんと床を踏んでいる感じがした。


デスクに戻ると、先輩がちらりと見た。

「大丈夫だった?」

真昼は少しだけ考えてから答えた。

「大丈夫かは分からないですけど、言いたいことは言いました」

先輩は目を丸くしたあと、小さく笑った。

「そっか」

それだけだった。深く聞いてこない。それもまた、ありがたかった。

午前の仕事を進めながら、真昼は何度か自分の内側を確認した。怖さはまだ残っている。気まずさもある。課長にどう思われたかも分からない。これが評価にどう響くかなんて、なおさら分からない。

でも、自分に対する失望は、少し薄かった。

それは予想外だった。

勇気を出したから高揚している、という感じではない。むしろ、やっと最低限の手続きを終えたような感覚だ。

昨日、自分の人生の契約書に、空欄のまま押しかけていた印鑑を、今日は少しだけ自分で持った。そんな感じだった。


昼休み、真昼はひとりで外に出た。

コンビニでおにぎりと温かいお茶を買い、少し遠回りして商店街のほうへ歩く。もちろん平日の昼間にあの店が開いているとは思っていない。それでも、なぜか足が向いた。

商店街のはずれに着くと、昨日の店があったはずの場所には、古びた空き店舗があるだけだった。白い紙も、引き戸も、何もない。

向かいも同じだ。瓶の棚も、暖簾も、見当たらない。

ただ、風で転がったらしい小さな紙片が、石畳のすみに引っかかっていた。

真昼はしゃがんで拾った。

白い、細い紙。レシートのようでいて、印字はない。けれど裏返すと、鉛筆で小さく一行だけ書かれていた。

返品は、痛みではなく、鈍さから始まる。

真昼はしばらくその字を見つめた。

痛みを感じることは、つらい。でも、鈍くなることのほうが危ない。嫌なことを嫌だと感じなくなり、違うことを違うと言えなくなり、自分の輪郭が削れていく。

昨日を売りたくなるのは、痛みのせいだ。けれど本当に失ってはいけないのは、その痛みが示していた線なのだ。

真昼は紙を折りたたみ、財布の内側にしまった。


午後、部長から呼ばれた。

「今朝、課長と話したらしいね」

来た、と思った。

真昼は部長の席の前で立ち止まった。部長はモニターから目を離し、椅子を少し回した。

「何か不満があったのか」

言い方は柔らかい。だが、問いの中には「組織の中でどこまでを問題にするのか」という品定めがある。

ここが二度目の支払いだと、真昼は思った。

課長に言っただけでは終わらない。輪郭を見せると、それを測る人が出てくる。

真昼は答えた。

「不満というより、進め方について共有したかったです」

「進め方?」

「昨日のような場で、私が説明役になるなら、事前に認識合わせがほしいです」

部長は少し笑った。

「でも、現場では臨機応変さも必要だよ」

その笑い方が、昨日の自分なら一番弱くなるポイントだった。正論の形をした曖昧さ。柔らかい口調で、線をぼかしてくる感じ。

真昼は自分の呼吸を一度だけ整えた。

「はい。臨機応変さは必要だと思います。ただ、その場の対応と、その後の整理は別だと思っています」

部長の笑みが少しだけ薄れた。

「私は、昨日の件で自分の役割が曖昧なまま前に出たので、そこは整理したいです」

静かになった。

一秒。二秒。

やがて部長は、興味を失ったように肩をすくめた。

「分かった。そこまで言うなら、今後は少し丁寧にしよう」

勝った、とは全然思わなかった。だが、飲み込まれもしなかった。

「ありがとうございます」

真昼は頭を下げて離れた。

席に戻る途中、不思議なくらい涙が出そうになった。悔しいからではない。嬉しいからでもない。

Chapter 4 02 hallway

たぶん、昨日までの自分が、ああいう場でどれだけ黙っていたかを身体が思い出したのだ。


定時を少し過ぎて会社を出た。

空はまだ少し明るい。夕方の風が、朝よりやわらかい。

真昼は駅とは逆の方向へ歩いた。商店街へ向かうでもない。ただ、少し遠回りしたかった。

交差点を渡ったところで、ふとショーウィンドウに映る自分が見えた。顔は疲れている。すっきりともしていない。たぶん今日の会話を反芻して、夜にまたぐるぐるするだろう。

それでも、昨日の自分とは違った。

軽くはない。でも、空っぽでもない。

ポケットに手を入れると、札がまだあった。取り出してみる。

言う

その文字は少し薄くなっていた。まるで、一度使われた切符みたいに。

真昼は立ち止まり、札を裏返した。

裏には何もないと思っていた。だが、夕方の光に透かすと、うっすら別の文字が浮かんでいる。

Chapter 4 03 card sunset

次は、自分で選べます。

真昼は、ふっと笑った。

あの店は、やはり通い詰める場所ではないのだろう。ずっと店に頼っていたら、選ぶことそのものがまた外注になる。最後は自分でやるしかない。

そう思って札をしまおうとしたとき、道の向こうに見覚えのある白い紙が目に入った。

小さな古本屋の前。張り紙が一枚。

「一昨日の相談、承ります。」

真昼は目を細めた。

昨日でもなく、明日でもなく、今でもなく、今度は一昨日。

「増えてる……」

思わずつぶやく。

この商店街は、どこまで時間を細かく刻むつもりなのだろう。

風が吹き、張り紙が揺れた。その奥で、見覚えのある白いシャツの袖がちらりと見えた気がする。

真昼は立ち尽くしたまま、少しだけ笑ってしまった。

時間には、まだいろんな店がある。でも今日は、もう行かなくていい。

今日はちゃんと、今日の分を使ったから。

真昼は踵を返し、駅へ向かった。

その背中を、夕方の光が長く伸ばしていた。

制作クレジット

著者: ChatGPT / 挿絵: Gemini AI / 編集・組版: Claude Code

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