【昨日を売る店】第七話 まだ平気、の見立て

【昨日を売る店】第七話 まだ平気、の見立て

真昼は、その張り紙を三日見ないふりをした。

まだ平気、の見立て承ります。

嫌な名前だった。昨日、明日、今、一昨日、前々から。どの店も時間を扱っていた。けれど今度のそれは、時間ですらない。

言い訳だ。

人が自分に使う、いちばん便利で、いちばん危ない言葉。

まだ平気。

真昼はその言葉を、あまりにもよく知っていた。仕事が重なったとき。少し眠れない日が続いたとき。相手の雑な振る舞いに引っかかっても、「まあ、これくらい」と流したとき。本当は疲れているのに、倒れていないから大丈夫だと思ったとき。

限界ではない。だから問題ない。そうやって、自分の削れ方をいつも過小評価してきた。

それでも、今回ばかりは行かないつもりだった。

これ以上この商店街の店を回るのは、少し危ない気がしていた。自分の内側を見すぎると、現実の手触りが薄くなる。しかも、この店の名前はよくない。見てもらわなくても、まだ平気なのだから。

その週の金曜、真昼は昼過ぎから微熱っぽかった。倒れるほどではない。だが資料の文字が少しだけ遠く見える。肩がずっと上がっている感じがする。昼休みに食べたものの味も、きちんと入ってこない。

それでも仕事はできた。課長とも普通に話した。会議でも相槌を打てた。夕方には、先輩から「小野さん、最近ちょっと強くなったね」と冗談めかして言われて、真昼は笑って返した。

笑えた。帰れる。倒れていない。泣いてもいない。

だから、まだ平気のはずだった。

夜、駅を降りたとき、足が商店街のほうへ勝手に曲がった。


店は、これまでと違って妙に目立つ場所にあった。

商店街のちょうど真ん中。昔、チェーンの薬局が入っていて、数年前に閉店したまま空いていた大きめのテナント。シャッターの半分だけが開いていて、白い紙が貼ってある。

まだ平気、の見立て承ります。

見立て、という言い方が医者っぽい。だが病院ほど公的ではなく、占いほど曖昧でもない。嫌に中途半端だ。

中に入ると、真昼は思わず立ち止まった。

広かった。

これまでの店はどれも狭く、個人的で、ひとりぶんの時間を扱うような場所だった。だがここは違う。もともと店舗だった空間をそのまま使っているらしく、天井が高く、床も広い。蛍光灯ではなく白い間接照明で、全体が明るすぎず暗すぎず照らされている。

そして、店の中にはものがほとんどない。

診察室のようでもあり、ギャラリーのようでもあり、避難所の受付のようでもある。中央に長机が一つ。その向こうに、男が座っていた。

白衣ではない。グレーのニットに黒いパンツ。年齢は五十前後に見える。髪は短く、顔立ちは穏やかだが、妙に目だけが眠っていない。机の上には帳簿でもパソコンでもなく、古いタイプの体重計みたいなものと、小さな砂時計が三つ並んでいる。

真昼が近づくと、男は視線を上げた。

「こんばんは」

声は低い。よく響くが、脅かさない。

「ここは……」

「見立ての店です」

「まだ平気、の」

「ええ」

男はうなずいた。

「倒れてはいない。壊れてもいない。泣いてもいない。仕事にも行けている。だから本人も周りも“まだ平気”だと思っている。そういう状態を見にくる場所です」

真昼は嫌な感じがした。言葉が、あまりにも正確だったからだ。

「別に、今日はそんなに……」

言いかけると、男は小さく手を上げた。

「説明はあとで。まず、立ってください」

「何ですか」

「見立てですから」

男は体重計のような機械を足元へ押し出した。ただし目盛りは体重ではなく、見慣れない言葉で区切られている。

平熱摩耗鈍化代償運転破綻前

「ふざけてます?」

「いいえ」

男は真顔だった。

真昼はため息をつきつつ、その上に乗った。もちろん何かが物理的に測れるはずはない。だが足を置いた瞬間、小さくカチ、と音がして、針がゆっくり右へ動いた。

鈍化代償運転 のあいだで止まる。

Chapter 7 01 scale

真昼は顔をしかめた。

「何これ」

「予想より悪くて腹が立つでしょう」

「腹が立つというか、失礼ですね」

「だいたい皆そう言います」

男はメモも取らずに言った。

「でも少し安心もしている。“自分のしんどさが、気のせいではなかった”と分かるので」

真昼は黙った。

たしかに、それは少しあった。

「代償運転って何ですか」

「無理が利いている状態です。休めてはいない。でも壊れてもいない。足りないものを、緊張や責任感や慣れで埋めて動いている」

男は机の上の一番小さい砂時計をひっくり返した。

「ここで倒れる人は少ない。むしろ厄介なのは、倒れない人です」

真昼はその言葉に反応してしまった。

「倒れないほうがいいじゃないですか」

「本人にとってはね」

男は淡々と返した。

「でも、倒れない人は限界が分からなくなる。壊れないことが指標になる。その結果、ずっと鈍ったまま進み、自分の削れたぶんを“普通の成長痛”だと思い込む」

真昼は少し寒くなった。

それは、怖い話だった。でも幽霊の話より、ずっと現実的で嫌だった。

「何をするんですか、ここで」

「見立てます」

「だから、何を」

男は砂時計を指で止めた。

「限界かどうかではなく、“何を犠牲にして平気を維持しているか”を見る」

今までのどの店とも違う角度だった。

昨日を売る店は痛みを見た。明日を預かる店は重さを見た。今を選ぶ店は選択を見た。一昨日の店は地層を見た。前々からの店は型を見た。

この店は、支払っている代償を見る。

「診断票があります」

男は薄い紙を一枚出した。

だが、それはこれまでのワークシートとは違った。質問ではなく、二列の欄がある。

左には、日常の一場面。

* 休みの日、何もしたくない* 人に会ったあと、長く回復に時間がかかる* 仕事はできるが、面白さが減る* “ちゃんとした反応”をするのが面倒* 嫌だと感じる前に、自動で処理する* 以前好きだったものに触れる気力がない* 軽い雑談でも、どこか演技っぽい* 怒りより先に説明モードに入る

右の欄には、代償の種類。

感情好奇心回復力身体感覚対人の自然さ遊び判断の鋭さ

真昼は紙を見たまま、少し笑ってしまった。

「嫌すぎる」

「そうでしょう」

「当たってる感じが」

「見立てですから」

男はまったく笑わなかった。

真昼は椅子に座り、その紙に目を落とした。

一つずつ丸をつけていく。

休みの日、何もしたくない。ある。

人に会ったあと、長く回復に時間がかかる。ある。

仕事はできるが、面白さが減る。ある。

嫌だと感じる前に、自動で処理する。かなりある。

軽い雑談でも、どこか演技っぽい。それも、最近ある。

気づくと、紙の半分以上に印がついていた。

男はそれを見ても驚かない。

「なるほど」

「何がですか」

「あなたは“まだ平気”を、かなり上手に運転している」

嫌な褒められ方だった。

「で、何を犠牲にしてるんですか」

男は紙を指さした。

「主に、遊びと好奇心、それから身体感覚の初期段階」

「身体感覚?」

「疲れた、嫌だ、重い、眠い、楽しい、面倒だ、今日は会いたくない。そういう小さな信号を、あなたはかなり後回しにして動ける」

真昼は納得してしまった。

それは長所だと思っていた。やるべきことがあるなら、多少の気分は後回しにできる。大人なんだから当たり前だと。

「長所でもありますよ」

真昼が言うと、男はうなずいた。

「もちろん。代償運転は、悪ではない。締切前、緊急時、誰かを守るとき、必要なこともある」

「じゃあ問題ないのでは」

「常用しているのが問題です」

その返しが速かった。

「非常用の回路を、平常時にも使っている」

店の空気が少し冷えた気がした。

男は続けた。

「だから今のあなたは、壊れてはいない。でも、壊れていないことの代わりに、“元気な自分の微細さ”を削っている」

真昼は、その言葉を理解するのに少し時間がかかった。

微細さ。

大きく倒れるわけではない。仕事もできる。泣き崩れるわけでもない。でも、好き嫌いの小さな差、面白い・つまらないの微妙な揺れ、人に会ったあとに本当はどうだったか、そういう細かい感覚が鈍っていく。

それは確かに、最近あった。

何を食べたいか分からない。何が面白いかすぐ答えられない。休日も気づくとただ回復だけで終わる。本を開いても、昔みたいに世界に入っていけない。

「……それって、結構いやですね」

「はい」

男は静かに言った。

「ただし、多くの人はそこでは来ません」

「じゃあどこで来るんですか」

「面白くなくなったあとです」

その返答は、妙に刺さった。

つらいからではない。しんどいからでもない。自分の人生が、ただ“面白くない運転”に変わってから人は気づく。

真昼は診断票を見つめた。

「で、どうすれば」

「ここでは処方を出します」

「急に病院っぽい」

「見立ての店ですから」

男は机の下から、小さな箱を取り出した。薬箱みたいな形だが、中身は薬ではない。いくつもの小さな引き出しにラベルが貼ってある。

休む切る戻す遊ぶ鈍さを認める人を減らす予定を空ける

真昼は眉を上げた。

「ざっくりしてますね」

「ここで細かい解決策を出すと、全部タスクになる」

それは、たしかにそうだった。

真昼みたいな人間は、回復すらToDoに変える。

男は 戻す と書かれた引き出しを開けた。中には紙片が何枚か入っている。一枚を選んで差し出した。

そこにはこう書かれていた。

“平気かどうか”ではなく、“細かく感じられているか”で測ること。

真昼は読み返した。

「……指標を変えろってことですか」

「そうです」

男は初めて少しだけ表情をゆるめた。

「まだ働ける。まだ泣いていない。まだやれる。それでは遅い。今日は味がしたか。会話のあとで自分の気持ちが分かるか。疲れたとき、疲れたと認識できるか。面倒なものを面倒と感じられるか。そのあたりで測り直す」

真昼は、じわじわとその意味を理解した。

限界ではなく、感度で測る。

それは、今まで一度も持ったことのないものさしだった。

「もうひとつ」

男は 遊ぶ の引き出しを開けた。

出てきたのは、木でできた小さな独楽だった。色も塗られていない、ごく簡素なもの。

「これ、何ですか」

「処方」

「意味が分からない」

「回復に必要なのは、休養だけではありません。遊びです」

「子どもじゃないんですから」

「だからこそです」

男の声が少しだけ硬くなった。

「代償運転が長い人は、休みの日すら“正しく休もう”とする。でも遊びは役に立たなくていい。上達しなくていい。誰にも説明できなくていい。何の成果にもならないのに、自分の感覚が少し戻るものです」

真昼は独楽を見た。

玩具なんて、いつ以来だろう。

「そんなので戻りますか」

「戻りません」

男は即答した。

「でも、戻らなさを知るために要る」

「……」

「今のあなたは、遊びの筋肉がかなり痩せている。だから“何しても楽しくない”と確認するだけでも大事です。感度が鈍っている事実を、失敗扱いせずに知るために」

それは、厳しいようでいて少し救いがあった。

楽しめない自分を責めなくていい。ただ、感度が落ちていることを知る。

「相談料は」

真昼が聞くと、男は紙袋を差し出した。

中には何も入っていない。

「一つ、置いていってください」

「何を」

「“まだ平気”の中身を」

真昼は少し考えた。

“まだ平気”の中身。

しばらく黙って、ようやく言えた。

「……好きだったものが、そんなに好きじゃなくなっても、仕事できてるから平気。みたいなことです」

男はうなずいた。

「それを書いて」

真昼は紙袋に付いていた白い札に、鉛筆で短く書いた。

面白くなくなっても、回っているから平気。

書いた文字を見て、少し苦しくなった。それはまさに、自分が自分にかけていた呪文だった。

男は札を外し、袋ごと箱に入れた。箱の側面には、いくつもの札が貼ってある。

寝れば戻るから平気日曜に休めば平気泣いてないから平気みんなこれくらいだから平気前よりマシだから平気

どれも見覚えがあった。

「多いですね」

「人気の見立てです」

全然うれしくない人気だった。

帰ろうとすると、男が最後に言った。

「あなたは、壊れる手前ではありません」

真昼は振り向いた。

「でも、“面白くなくなる方向”にはかなり進んでいる。それは、思っているより深刻です」

脅しではなく、見立てとして言っているのが分かった。

真昼は独楽と紙片を持ち、店を出た。


その夜、家で独楽を回してみた。

うまく回らない。二度目も倒れる。三度目でようやく少しだけ回り、テーブルの上でかすかに唸るような音を立てる。

ただそれだけだった。

感動もない。子どものころを思い出して泣くこともない。回ったから何、という気持ちもある。

でも、四度目を回そうとしたとき、ふと笑ってしまった。

Chapter 7 02 spinning top

下手すぎて。

それは大きな回復ではなかった。けれど、役に立たないことで一瞬だけ笑ったのは、たぶん少し久しぶりだった。

真昼は独楽を止め、しばらく指先に乗せていた。

“平気かどうか”ではなく、“細かく感じられているか”で測ること。

味。疲れ。面倒さ。笑えたか。少し嫌だったかちゃんと退屈できたか。

そういう細いものを、いままで真昼は「大したことではない」と思っていた。けれど本当は、そういう細いものの束で人は自分の生活を感じているのかもしれない。

独楽をもう一度だけ回す。今度は少し長く回った。

それを見ながら、真昼はふと思った。

もしかすると、自分は壊れることばかり怖がっていた。けれど本当に怖いのは、壊れずに、そのまま鈍くなっていくことなのかもしれない。


翌日、昼休みに真昼はいつものコンビニではなく、小さな定食屋に入った。

別に特別な意味はない。ただ、少しあたたかいものを食べたいと思ったからだ。

席について、メニューを見て、珍しく迷った。どれでもいい、ではなく、今日は何を食べたいかを少し考えた。

生姜焼き。いや、今日は魚かもしれない。味噌汁がほしい。そんな、あってもなくてもよさそうな迷いが、なぜか少し新鮮だった。

注文した焼き魚定食が来て、一口食べる。

熱い。少ししょっぱい。大根おろしが思ったより辛い。

Chapter 7 03 grilled fish

それだけのことに、真昼は少し驚いた。ちゃんと味が入ってくる。

「……こういうことか」

小さくつぶやく。

まだ元気いっぱいではない。世界が急に輝いて見えるわけでもない。でも、細かく感じることが少し戻ると、生活はただの作業じゃなくなる。

そのとき、スマホが震えた。先輩からのメッセージだった。

今日の夕方、軽くお茶でもどう? この前の件、少し聞きたくて。

真昼は画面を見たまま少し止まった。

前なら反射で「大丈夫です、行けます」と返していた。でも今日は、一拍置いた。

本当はどうか。

疲れているか。会いたいか。今、その会話をしたいか。

真昼は自分の内側を探った。完全に嫌ではない。けれど、今日は少し静かに帰りたい気もする。

それは、以前なら拾わなかった小さな感覚だった。

真昼は短く返した。

ありがとうございます。今日は少し疲れているので、また来週でもいいですか。

送ったあと、少しだけ緊張した。断るほどのことではないのでは。感じ悪くないか。また頭の中で古い型が動き出す。

でもすぐに返信が来た。

もちろん。また来週にしよう。

それだけだった。

真昼は、箸を持ったまましばらく画面を見ていた。

何も起きない。

誰も機嫌を悪くしない。世界も壊れない。ただ、自分が今日は少し疲れていると認めて、その通りにしただけだ。

その小ささが、逆に大きかった。


その夜、帰り道に商店街を通ると、見立ての店のシャッターは閉まっていた。白い張り紙ももうない。

代わりに、少し離れた街灯の下に、新しい紙が一枚貼られていた。

「そのままでいた場合、のご案内」

真昼は立ち止まった。

「いやな名前の店しかないな……」

思わず声が出る。

これまでの店とは少し違う感じがした。昨日、明日、今、一昨日、前々から、まだ平気。それらはどれも、自分の状態や時間を扱っていた。

でも そのままでいた場合 は、もっと露骨だ。道筋の話だ。未来予想図というより、放置した結果の説明書みたいで、妙に冷たい。

真昼はすぐには近づかなかった。

街灯の光の下で、その紙だけが白く浮いて見える。風が吹いて、角が少しめくれた。

この商店街は、いつも少し先回りしてくる。昨日を扱ったら、その背景が出てくる。背景を見たら、型が出てくる。型が見えたら、今度は「それを放置したらどうなるか」が現れる。

親切なのか、性格が悪いのか分からない。

真昼は少し笑ってから、紙に背を向けた。

今日は行かない。

今日は、焼き魚の味がした。断ったあとに世界が壊れないことも分かった。独楽を回して、少し笑えた。

それで十分だと思った。

だが帰宅してから、バッグの中の独楽を取り出したとき、底に小さな紙片が入っているのに気づいた。見立ての店でもらった覚えはない。

開くと、たった一行。

人は壊れる前より、慣れ切ったあとに戻りにくい。

真昼は、しばらくその紙を見ていた。

怖いのは、限界ではない。慣れだ。この鈍さ、この削れ方、このつまらなさに慣れて、それを自分の標準にしてしまうこと。

テーブルの上に独楽を置く。紙片をその横に置く。窓の外では、どこかで電車の音がした。

真昼は目を閉じて思う。

自分はまだ、戻れるところにいるのだろうか。それとも、戻るのではなく、別の輪郭を作り直す時期なのだろうか。

その答えはまだ分からない。でも少なくとも、今日の自分は昨日より少し細かく感じていた。

それはたぶん、かなり重要なことだった。

制作クレジット

著者: ChatGPT / 挿絵: Gemini AI / 編集・組版: Claude Code

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