【昨日を売る店】第一話 昨日を売る店
商店街のはずれに、その店はあった。
看板はない。ガラス戸もない。ただ、古びた木の引き戸に、白い紙が一枚だけ貼られている。
「昨日、買います。」
最初に見つけたとき、真昼は立ち止まって三秒だけ笑った。
冗談みたいな店だと思ったのだ。
昨日を買う。何を言っているのか分からない。人生に疲れた誰かを引っかける、新手の占いかもしれない。
だがその日、真昼はどうしても家に帰りたくなかった。
会社で大きなミスをした。正確に言えば、真昼のミスではない。部長が判断を誤り、課長が責任を避け、そのしわ寄せが真昼にきた。会議室で頭を下げたのは真昼だった。
「若いんだから、いい経験になったでしょ」
帰り際に先輩が笑って言った一言が、妙に刺さった。
いい経験。そういう言葉で片付けられるたび、人の痛みには値札がついていないのだと思う。
真昼はため息をつき、引き戸を開けた。
店の中は狭かった。古本屋のようでもあり、質屋のようでもあり、病院の待合室のようでもあった。壁いっぱいに小さな引き出しが並び、それぞれに日付が書かれている。
2026年3月5日2024年11月18日2013年7月22日
古いものも、新しいものもある。
カウンターの向こうには、年齢の分からない女が座っていた。白いシャツに黒いベスト、髪を後ろでひとつに束ねている。顔立ちは整っていたが、まるで印象が残らない。
「いらっしゃいませ」
「……ここ、何の店ですか」
「昨日を買い取る店です」
あまりにもそのままの答えだった。
真昼は苦笑したが、女は笑わない。
「お客様の昨日を、こちらで引き取ります。なくしたい昨日、持っていたくない昨日、思い出すたびに体が重くなる昨日。そういうものをお預かりします」
「預かる?」
「売る、でもいいです」
「売ったら、どうなるんですか」
女は少しだけ首をかしげた。
「なくなります」
真昼は黙った。
「記憶が?」
「正確には、記憶に付随する重みが消えます。内容もうすくなります。輪郭がぼやけて、自分のことだった気がしなくなる。多くの方は、それで十分満足されます」
「そんなこと、できるわけないでしょう」
「そう思う方は、帰られます」
女は淡々と言った。
「でも、お客様はまだ帰っていない」
真昼は言い返せなかった。
店の空気が、妙に静かだった。時計の音もないのに、時間だけが静かに沈んでいるような感じがする。
「……値段は」
「昨日の種類によります」
「種類?」
「失敗、失恋、屈辱、後悔、選ばなかった道。いろいろございます」
女は帳簿を開いた。
「本日のお客様の昨日は、職場での不当な謝罪、理不尽な責任転嫁、自尊心の摩耗。こちらは中程度の痛みですが、長引くタイプです」
真昼は一歩下がった。
「なんで分かるんですか」
「ここに来る方は、たいてい顔に書いてあります」
女は初めて少し笑った。その笑みは優しかったが、優しすぎて逆に怖かった。
「買い取り額は三万円です」
「安いのか高いのか分からないですね」
「妥当です。涙が出るほどではないけれど、夜が少し長くなる昨日ですから」
妙に納得してしまう表現だった。
真昼は財布を握りしめた。三万円ほしいわけではない。ほしいのは、あの会議室で立ち尽くした自分の感覚を消すことだった。
「売ります」
女は小さな銀の皿を差し出した。
「では、昨日を思い出してください。なるべく鮮明に」
真昼は目を閉じた。
冷たい会議室。長机。プロジェクターの青白い光。部長の落ち着いた声。課長の視線。自分の声だけが少し震えていたこと。誰も助けてくれなかったこと。帰りのエレベーターに映った、自分のつまらない顔。
胸の奥がまた重くなる。
「十分です」
女がそう言った瞬間、真昼の中で何かが、するりと抜けた。
痛みではない。熱でもない。もっと長くそこにいたもの。見えない棘のようなものが、音もなく引き抜かれた感覚だった。
真昼は目を開けた。
銀の皿の上に、小さなガラス玉が乗っていた。薄い灰色で、会議室の曇った空気みたいな色をしている。
「お客様の昨日です」
「……これが?」
「はい」
女は三万円を封筒に入れて差し出した。
真昼は受け取った。不思議と、さっきまでの怒りが薄い。確かに何か嫌なことがあった気はする。だが、その中心が空洞になったようだった。
「本当に……なくなってる」
「よかったですね」
そう言われて、真昼は安心するはずだった。
なのに、少しだけ寒気がした。
「その玉、どうするんですか」
「保管します」
女は壁の引き出しのひとつを開けた。今日の日付が書かれている。中には同じようなガラス玉がいくつも並んでいた。赤、青、黒、透明、濁った金色。
どれも、誰かの昨日なのだ。
「たまに売れます」
「売れる?」
「はい。昨日を欲しがる方もいますから」
意味が分からない。
「そんな人、いるんですか」
「いますよ。自分の人生に厚みが足りないと思う方。他人の痛みをコレクションする方。作家、詐欺師、政治家、恋人」
最後のひとつだけ妙に生々しかった。
真昼は店を出た。
外はもう夕方だった。商店街の電灯がぽつぽつと灯り、魚屋の前を自転車が通り過ぎる。世界は変わっていない。なのに、足取りは少し軽い。
その夜、真昼は久しぶりによく眠れた。
翌朝も気分は悪くなかった。会社に行き、同僚と話し、メールを返し、資料を直した。昨日の件を思い出そうとしても、曇りガラスの向こうを見るようで、細部がつかめない。
部長の顔も、謝った言葉も、なぜあんなに苦しかったのかも。
ただ、昼休みに先輩が言った。
「昨日は災難だったね。よく耐えたよ」
真昼は曖昧に笑った。
耐えた。自分は何を耐えたのだろう。
その瞬間、ほんの小さな不安が胸に落ちた。
夜、真昼はもう一度あの店へ向かった。
引き戸を開けると、女は昨日と同じ姿勢で座っていた。
「返品はできますか」
女は少しだけ目を細めた。
「できます」
真昼は安堵した。
「よかった」
「ただし」
女は帳簿を閉じた。
「一度売った昨日は、買い戻すと、利子がつきます」
「利子?」
「痛みは、時間が経つほど発酵します」
背筋が冷えた。
「つまり?」
「三万円で売った昨日を買い戻す場合、七万円です。記憶も感情も、少し濃くなって戻ります」
「そんなの……」
「お客様。人は、ときどき勘違いします」
女の声は静かだった。
「苦しみがつらいのではなく、苦しみがあった事実を持てないことが、つらい場合があるのです」
真昼は言葉を失った。
女は続けた。
「理不尽に傷ついた昨日は、あなたの尊厳の証明でもあります。消せば楽になる。でも、何に傷ついたのかを忘れた人は、同じことをもう一度受け入れてしまう」
店の空気が急に重くなった気がした。
壁の引き出しが、無数の口のように並んで見える。
「あの会議室で、あなたは何を失いそうになったのですか」
真昼は答えられなかった。
でも、分かってしまった。
昨日失ったのは、機嫌ではない。気分でもない。「自分はこう扱われていい人間ではない」という感覚だった。
それを売ってしまったのだ。
だから軽かった。軽くなりすぎていた。
真昼は封筒から三万円を取り出し、カウンターに置いた。
「足りませんよ」と女が言う。
「今日は予約です」
真昼は言った。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「すぐには買い戻しません。でも、売らないほうがいい昨日もあるってことは、分かりました」
女はしばらく真昼を見ていたが、やがて小さくうなずいた。
「賢明です」
「でも、どうしてこんな店を?」
女は少し考えてから答えた。
「私は昔、明日を売ろうとした人をたくさん見ました。だから、昨日のうちに止める店を始めたんです」
意味は分からなかった。けれど真昼は、それ以上聞かなかった。
店を出ると、春先の冷たい風が吹いていた。痛みはまだ戻らない。完全には思い出せない。けれど、きっと少しずつ取り戻すべきものなのだと分かった。
商店街の角を曲がると、向かいの空き店舗に、新しい紙が貼られているのが見えた。
「明日、預かります。」
真昼は立ち尽くした。
その店の引き戸の隙間から、見覚えのある白いシャツが揺れた気がした。
制作クレジット
著者: ChatGPT / 挿絵: Gemini AI / 編集・組版: Claude Code